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備中松山城と新島襄・・・そして寅さんと高梁市2024年02月05日

 

備中松山城天守閣にあるパネル展示

 コロナの時期には安くて空いているので、自分の好きなテーマに沿って、よく出かけました。「城巡りと城下町歩き」をテーマに、岡山方面に出かけた際に、備中松山城の天守閣でたまたま見かけたパネル展示に、「備中松山藩と新島襄」がありました。記事を監修した高梁基督教会の現牧師山本真司さまのご了解のもと、要点をご紹介します。山本さまは同志社国際中高の教師をされていて、令和4年から高梁教会に着任されています。

① 「備中松山藩と新島襄」

 新島襄は天保14年(1843)に武士の子として、安中藩板倉家の江戸屋敷藩邸で誕生しました。安中藩板倉家は備中松山藩板倉家の分家に当たり、その縁で襄は松山藩江戸藩邸の漢学師川田甕江に師事しました。襄は川田の推薦で備中松山藩の洋式帆船「快風丸」に二度乗船し航海しました。最初の航海では備中松山藩の領地(飛び地)だった玉島(現倉敷市)を訪れてます。

 襄は当時禁止されていた聖書を読むうちに、キリスト教を学んで、その教えで日本人の魂を救うことを考えるようになりました。そこで襄はアメリカの貿易船が来る函館に行き、そこから密航しアメリカでキリスト教を学ぶことを計画しました。しかし安中藩主・板倉勝殷に拘束されて江戸を離れることが出来ませんでした。この襄の困難を助けて彼を函館まで運ぶ上で大きな役割を果たしたのが、備中松山藩主・板倉勝静だったのです。元治元年(1864)快風丸での二度目の航海で函館に着いた襄はアメリカ船に便乗して密出国しました。

 1年の航海の後アメリカに着いた襄は、アメリカ人実業家の保護を受け、約8年にわたって大学などで近代的な知識を身に付けました。明治4年に襄はワシントンにて明治新政府の駐米公使に面会、密出国の罪を許され、日本政府の留学生として認定され、翌5年訪米中の板倉使節団の随員に任命され、その案内役を勤め欧米各国を視察しました。その後アメリカに戻り、さらに神学校でキリスト教を学びました。

「新島襄の日本での布教と高梁基督教会」

 日本人初のプロテスタント教会の牧師となった襄は明治7年(1874)日本に帰国し、翌年に京都に同志社大学を創立しました。備中松山藩が名称を明治2年に高梁藩と変えましたが、明治4年の廃藩置県の後も高梁の名前が残りました。明治13年に襄が高梁にやって来て熱心に教えを伝えました。襄の教えに感動した16名の人々が、襄の説く神とイエス・キリストこそが新時代の精神の救いと希望の拠り所となると信じて、明治15年二宮邦次郎を牧師として高梁基督教会を創立しました。2年後の迫害事件を乗り越え、多くの町民の協力を得て、明治22年(1889)にプロテスタント教会として日本で2番目に古い大型洋風建築の高梁基督教会堂が建立されました。1番古いのは同志社大学の礼拝堂です。

 

パネル展示の拡大

高梁基督教会

 

高梁市の武家屋敷街

 映画撮影のパネル

② 「フーテンの寅さんと備中松山城のある高梁(たかはし)」

 「男はつらいよ!寅次郎の恋歌シリーズ第8作りんどうの花」で諏訪家のシーンに高梁武家屋敷街の一軒が使われています。寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)の旦那諏訪博さん(前田吟)の実家が高梁市で、博さんの母親の葬儀に、諏訪家親族が集まります。呼ばれてもいない寅さんが遠縁ということで、突然葬儀に現れ、墓参りや法事に参加したりして、騒動をあれこれ起こします。

 備中松山城の城下町、高梁観光中、映画シーンのパネル展示を見つけました。

 映画では諏訪家の近くを蒸気機関車が通り過ぎるシーンが何度もあるので、印象的です。現在は武家屋敷街近くにJR伯備線があり特急やくもが走っています。

 また寅さんが好きで、葛飾柴又へも訪れました。柴又駅前の寅さんとさくらの銅像や帝釈天は有名です。寅さんが恋に落ちる名女優:池内淳子の営む「喫茶ローク」が映画にありますが、今ではウナギ屋さんになっていました。

 私の楽しみの一つは、映画の聖地巡礼です。高梁市を訪れるのは、同志社人の聖地巡礼とも言えますね。皆さんもどうぞ訪ねてみて下さい。その際には是非、高梁基督教会の山本牧師とお話しして下さい。 

 1985年卒 若井 英貴